経営者の輪Vol.345 株式会社田村建設の代表取締役 田村知幸さん

経営者の輪Vol.345 株式会社田村建設の代表取締役 田村知幸さん

今回、お話を伺うのは、株式会社田村建設の代表取締役 田村知幸さん。お父さまが創設した田村建設を、今は兄弟3人で力を合わせて盛り立てています。そんな田村さんが現在に至るまでや、楽しみにしていることについて伺いました。

プロフィール

田村 知幸(たむら ともゆき)さん

伊勢崎市出身

伊勢崎市在住



小学生時代の夢は「大工さん」

社員の半分以上が自社大工。一級・二級建築士、一級建築大工技能士、宅地建物取引士、ファイナンシャルプランナーなど、さまざまな有資格者が在籍する株式会社田村建設。同社は、現在代表取締役を務める田村知幸さんが1歳の時、お父さまが興した会社です。


当時は、ご自宅が仕事場となっており「立て掛けてある材木をくぐって家に入っていた」のだとか。お父さまは日々現場を忙しく飛び回っていて、実際に働く姿を目にすることはなかったといいます。それでも、小学校の卒業文集には「大工になりたい」と夢をつづっていました。


「そういえば!」と田村さん。「図工は好きでしたねぇ」。当時の作品を改めて見ると、根気よく作っていたと感じられる、と言います。「話していると思い出すものですね」とはにかみながら言葉を続けます。現在の片鱗が伺えますね。


身体を動かすことが好きだった田村さんは、小学生のころからソフトボールやスキーなどに積極的に参加。中学時代は、冬になると電車で友達と新潟までスキーに出かけていたそうです。中学では野球部に所属。足の速さを生かして、1番バッター。守備は外野でチームを支えました。



進学した桐生高校でも硬式野球部に入部。放課後の屋外練習が終わるとプールトレーニングというハードな毎日が続きました。進学校の同校は、宿題の量も多かったそう。生活面での変化に体が戸惑ってしまったのでしょう。体調を崩して入院。休みを余儀なくされ、野球部を辞めることになるのです。「このことは今でも本当に残念で」と唇を噛みます。


大学入試の際は、全て建築学科を受験。しかし「この時は家を継ぐという意識はなく、進むなら建築方面へというくらいの意識でした」と振り返ります。

進学先は、日本大学工学部建築学科。キャンパスは郡山にあったため、初めて一人暮らしを経験しました。学生は、日本の各地から集まっており、一気に世界が広がりました。大学で知り合った友人のほとんどが近くに住んでいて、夜中まで一緒に課題をしたり、模型を作ったり。講義が終わるとサークル活動、と学生時代を存分に謳歌しました。


お客さまの声を直接聞きたい

就職を考えるようになったとき「自立して稼ごうという気持ちが強く、実家に入ることは考えていなかった」と田村さん。卒業後は、高崎市の井上工業に入社します。井上工業は、高崎のシンボルである「白衣観音」を建てたことでも知られるゼネコン。ところが、田村さんが配属されたのは住宅事業部でした。当時、住宅部門は勢いがあり、県内各所に展示場を展開。たくさんのお客さまを抱えていました。ここで1年間、現場監督を経験。その後、設計や見積もりをする部署に移りました。営業がお客さまと打ち合わせをした内容をもとに設計をしたり、パースをつくったり。竣工すると、営業から「お客さまが喜んでいらした」と反応を聞いて喜びを募らせる反面、お客さまと実際に顔を合わせないことに対して少しずつもどかしさを感じるようになっていました。また、自らの成長のため、建築士を目指して予備校に通っていましたが、多忙を極めていたため思うように勉強の時間が確保できず、焦燥感を持ち始めていました。仕事は順調。しかし、心はいつも霧に包まれているような状態だったのです。これらのことがきっかけになり、お客さまと向き合って仕事をする田村建設への入社を考えるようになっていました。


「誰にも、一切相談はしませんでした」という田村さんは、ある朝、お父さまの寝室のドアをいきなり開け「会社を辞めて家に入る」と宣言。寝込みを襲われた(?)お父さまの反応は「そうか」と至ってシンプルなものだったそうです。


宣言から半年後、田村建設に入社。住まいづくりに携わっていた身内とはいえ、いきなりお客さまを任せてもらえることはありませんでした。そこで、今まで同社が力を入れていなかった広報・広告活動をしようと、ホームページやパンフレットを制作。お客さまの多くは紹介がほとんどでしたが、ホームページやパンフレットを見ていらっしゃる方も増え始めました。


日本の伝統を大切に

そうこうしているうちに、田村さんたち兄弟3人、全員が会社に集結。「大工をしている2人の弟の存在がとても心強い」と田村さん。「自分ではさほど意識をしていませんが、周りからは兄弟がよくまとまっている、とお褒めの言葉をいただいています」と笑顔を見せます。

家族経営の良さは、コミュニケーションが取りやすいこと。「特に揉めることはない」とおっしゃるのですから、本当に仲が良いのですね!


入社から10年経った2013年、社長に就任。「社長交代は拍子抜けするほどあっさりとしていた」と言います。会長となったお父さまは、会社のことをすべて知幸さんに任せ、ご自分が表舞台に立つことは一切しなくなったそう。


田村さんが語る同社らしさは、日本に伝わる伝統的な工法を大切にしていること。そのため、大工さんをはじめとする職人さんたちの技、木組みの美しさ、無垢の木の使用などに力を入れています。


設計をするうえで田村さん自身が大切にしているのは、お客さまの立場に立つこと。このお客さまだったらどうだろう? お客さまの中に溶け込むようにして考え、そこにプロとしての目線視点を加え、提案をしていくそうです。こうして寄せられる喜びの声は、次につながる原動力になります。


社長になって10年。一定の基盤を築き上げることができた今、考えているのは従業員さんの処遇改善。その後、どのようなステップを踏むのかは、模索中だそうです。


プライベートでは1児の父。ご家族で子ども向けのイベントやコンサートに行ったり、遊んだりするのが休日の楽しみです。

趣味は、ライブ参戦と野球、そして建築物めぐりです。最近ではやなどのライブに行って元気を充満したのだそうです。地元の野球チームにも所属していますが、今は感染症拡大防止のため、チームが活動を自粛中。「また集まってみんなでプレイしたい」と笑顔で話します。高校生時代の悔しい思いは、今、新たな楽しみとなって田村さんを支えています。

建築物めぐりの中で、2013年に隈研吾氏が南青山に設計したパイナップルケーキショップ、サニーヒルズが特に刺激を受けたそうです。「都市の中に森を作る」というコンセプトを掲げたサニーヒルズは、細い木を組み合わせ、一度組んだらなかなか外れない「地獄組み」という日本の伝統的な木組みの外観が目を引きます。そんな隈研吾氏の建物が好きになり、新しい建築物ができると旅行がてら見学に。建物そのものの美しさを堪能したり、写真を撮ったりしながら建築の参考にしているのだそうです。「近県はほとんど行っているので、これからはもっと遠いところまで足を運びたい」と田村さん。巨匠の作品にインスパイアされ、田村さんの手からさらに洗練された建物が生まれます。


企業情報

株式会社田村建設

 

◆住所/伊勢崎市小泉町450‐4

◆電話/0270-63-3333

◆設立/1976年

◆営業時間/9:00~19:00

◆休日/日曜、祝日

◆従業員数/11人(うち自社大工6名)

◆事業内容/住宅の設計・施工、建築・土木工事、不動産の取引

 

株式会社田村建設 はこちら

 
取材日 2023年12月

応援します商売人!
今こそフロンティアスピリッツを発揮せよ!

あのお店・会社のあの人を連載で御紹介します。
アイマップでは連載企画として、「応援します商売人!今こそフロンティアスピリッツを発揮せよ」と称し地域の企業人・オーナーさん達をご紹介していきます。 また次の方は、ご紹介を頂くという経営者の輪方式をとらせて頂きます(笑) この企画を通じて、少しでも地域の皆さんに地元のお店や企業、そしてそこで働く人達を知って頂ければ と思っています。またそれが僅かでも売上増やビジネスチャンスに繋がれば幸です。

ご注意:本記事は上記の日付をもとに作成しています。実際にお店等に行く方におかれましては、事前に電話等で確認してからお出かけ下さい。記事と情報が異なる場合、imapは一切責任を負いませんのでご了承下さい。(記事と情報が異なる場合もありますので ご了承下さい。)


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